文政の初年頃(1810〜1820)紀伊郡東九条村(現在の南区東九条)の小山藤七という人が、当時極晩生種であっただいこんの種子を得て、「藤七だいこん」という名で種子を販売したのが源であるといわれている。葉は淡青緑色、深い切れこみがある直立性で、中助(葉の背骨に当たる部分)の細いのが特徴で、根部は先端が細まった尖円筒形をしており、太さ6〜8cm、長さ45cm前後である。現在では、改良されて「花不知早太り時無だいこん」として広く各地に普及し、端境期だいこんとして栽培されている。
 
うどは、大昔から日本各地に自生していた植物であるが、京都での栽培は、丹後(亀岡市)や桃山(京都市伏見区)を中心に行われていた。栽培は、丹波においては、わら小屋の中で醸熱材料を使って冬期(2〜3月)に軟白して出荷するが、桃山のは丘陵の砂質土壌の緩い斜面において、久保柿の下地利用として栽培され、3月中下旬に根株の上に高さ60cm程度の特殊な盛土をして軟化させ、春(5月)に収穫する。現在では、都市化等により面積が減少し、亀岡市及び京都市伏見区桃山地区で数戸の農家が栽培を続けている。
 
江戸時代の終わり頃(約150年前)、桃山江戸町(現在の伏見区桃山)の茗荷屋平兵衛という人が、湧水を用いて人工的に作ることを思いついたのが始まりであるといわれる。栽培は、5月に貯蔵苗を畑に植え、わらを敷いて夏の乾燥に注意して育て、9月下旬〜10月上旬に出荷するが、その後、地上部が枯れた株を掘り取り、12月下旬〜2月上旬に、「カマ」という所に入れて湧水をかけ流して育て冬期にも出荷する。現在では、都市化等により栽培面積も減少し、京都市桃山御陵地区や城陽市において、豊富に湧出する地下水を利用して栽培が続けられている。
 
栽培の起源は不明であるが、明治初期には愛宕郡田中村(現在の左京区田中)で作られていた記録がある。栽培は12月末には種し、4月にトンネルに定植、6月上旬〜10月下旬まで収穫する。樹形はほふく性をしめし、果実は太短く、他のとうがらしより濃い緑色をしており、果実先端部がしし頭状である。ピーマンと同様の食べ方をし、一般家庭では煮物、又は焼いて食用に供しているが、料亭での需要も多い。現在では、北区において、このとうがらしの系統と思われるものが栽培されている。
 
栽培の起源は不明であるが、口伝では山科区で作られていたとのことである。栽培は田中とうがらしと同じであるが、果実先端部が尖頭状であり、果肉もうすい。また樹形も立性で栽培も容易である。京都市北区でわずかに栽培されている。辛味がなく魚の煮物のつけあわせとしてつかわれることが多い。
 
渇野郡桂字中桂(現在の西京区桂)の原産であり、その来歴は桂離宮の建設(江戸時代初期)より古く、この地方で栽培されていた大越うりの中から品質の優れた極大型のものを選抜したものであるといわれる。肉質がち密で弾力性があり、歯切れが良いため、古くから「奈良漬」の原料として利用されてきた。果実は大きくて肉が厚く、頭から先まで一様な太さで長さ50〜90cm程度となり、重さは4kg程度となるのが普通である。現在ではわずかに栽培されているにすぎない。
 
我が国の原産で、皇極天皇の時代(7世紀の半ば)にすでに利用され始めた。府内においても、「雍州府志」(1684)に伏見産や洛北産の記録があることから、非常に古くから利用され、特に山科産は銀といわれ品質が良かったという記録もある。古い沼地に大昔から自生し、その若菜が食用とされてきた野菜の一種類で、普通自生するものを採集し、人為的に栽培することはほとんどない。収穫は、5〜9月ごろまで続くが、6〜7月上旬が最盛期となる。葉が未だ開かない若葉を摘み、二杯酢、三杯酢、汁の実等にし、粘質物(ゼラチン)のぬるりとした感じを賞味する。近年、沼地の水質変化や汚染物質の流入・改廃等により生産が減少し、現在では採集されていない。
 
昭和18年頃、北区鷹ヶ峰の島本啓一氏が、知人から譲り受けた品質の良いとうがらしを栽培、選抜し、固定種を育成したものである。栽培は、2月上中旬には種し、5月上旬に定植、6月〜9月に収穫する。果実は12cmほどの長さで、肉質が厚く光沢があり甘味がある。肉質がやわらかく上品な風味があり、焼いても、いためても、天ぷらにしても味が良い。現在では、京都市北区を中心に栽培されている。
 
京都市北区鷹ヶ峰の原産で、元禄(1688〜1704)の頃から栽培されていたといわれる。栽培は、8月下旬〜9月上旬には種し、11月上旬〜12月中旬に収穫する。根部、茎部とも小かぶに酷似しているが全くのだいこんで、根部は強い辛味を有する。品質はち密で水分が極めて少ないため、そばの薬味として、つゆを薄めることなく濁らせず辛味をつける最高のものとして、用いられる。現在では、京都市内でわずかに栽培され、市内の料亭などで使用されている。吹散だいこんとも呼ばれる。
 
文化・文政の頃(1804〜1829)に、葛野郡朱雀村(現在の下京区朱雀)において、今は絶滅した郡だいこんの変異種として作出されたと伝えられる。栽培は、8月下旬〜9月上旬には種し、11月〜1月末まで順次収穫する。根部が1〜2屈曲する中生系のだいこんで、地上露出部は緑色を呈する。古来より主として祝儀用として使用され、吸物の具や青味の部分をきゅうりの代用とするなど珍重され、明治以来大典その他天皇行幸に際して郡だいこんとともに献上されたりもした。現在では、京都市内の数戸の農家が栽培を続けている。
 
起源は明らかでないが、伊吹山大根(滋賀県坂田郡上野村)を京都の桃山の一部(現在の伏見区深草大亀谷)に移して栽培したものといわれ、一名大亀谷だいこんとも呼ばれた。栽培は、8月下旬〜9月中旬には種し、11月中旬〜1月下旬に収穫する。根の直径6〜8cm、長さ30cm内外で肉質が非常にしまっているのが特徴である。早生系と晩生系があり、毛じの密度が異なる。このだいこんは、沢庵漬物用に供せられ、桶から出して時間がたっても色、香りが変わらず、翌年の土用を越しても味が変化しない利点があるが、食生活の変化に伴い、需要は激減し、現在では種子保存用の栽培のみとなっている。
 
本種は、京都市下京区中堂寺あたりで古くから栽培されるが、その起源は不明である。栽培は、9月中下旬には種し、12月上中旬に収穫する。秋だいこんの一種で、茎葉は繊細であるが、根部はしまった尻詰りで根長30cm内外、直径6cm程度となり、地上部に抜き出る特性がある。このだいこんは、茎も葉もともに漬け込み、漬物としてその風味が良い。聖護院だいこんが育成されるまでは、洛東・洛北一帯に広く栽培されていたが、現在では左京区松ヶ崎、北区鷹ヶ峰地区等で栽培されている。
 
起源は明らかでないが、すでに嘉永(1848〜1854)の後期か安政(1854〜1860)の初期には存在したようで、当時は四月だいこんまたは真壁だいこんと呼ばれていた。栽培は、9月中〜下旬には種し、2月〜5月に収穫する極晩生種の春だいこんの一種である。葉は、地表に近接して横繁性を示し、根部は紡錘形で首の色が淡緑と白の2系統がある。一時は舞鶴市を中心に50haほど栽培され、京阪市場に出荷されていたが、現在では、同市西大浦でわずかに栽培されているにすぎない。
 
京都市上賀茂に伝承する特産野菜で、「すぐき」という呼び名の漬物として広く一般に賞味されてきた。かぶの一種で、その来歴については明らかになっていないが、約300年前後の栽培歴を有しているのは確実と見られ、古くは賀茂神社の社家など限られた人々が上流社会への贈答用として栽培していた。栽培は、8月下旬には種し、11月中旬に収穫する作型が多い。多数の系統があるが、近年、多く栽培されているのはびわ葉で、根はくさび型になる早生の系統で根の重さは1kgを越える。年末年始に贈答用として珍重される京漬物「すぐき」は、すぐき菜を塩以外の調味料を使わず、乳酸発酵させたもので、漬け方もてんびん押しという特有の方法で行われる。上賀茂を中心に栽培されている。
 
享年年間(1716〜1736)に愛宕郡聖護院(現在の左京区聖護院)の篤農家が、近江国堅田地方(現在の大津市堅田)から持ち帰った種子を栽培したのが始まりで、その後、改良され現在のかぶになったといわれている。天正年間(1830〜1844)には、このかぶを原料として薄片の漬物をつくり、京の名産「千枚漬け」の名で一般に知られるようになってからは、栽培が一層盛んになった。栽培は、8月下旬〜9月上旬には種し、10月下旬〜11月下旬に収穫する作型が多い。腰高の球形(直径15〜20cm)をしており、一個平均1〜1.5kgで、大きいものは5kgにも達するものもあり、我が国のかぶでは最大である。現在の主産地は、北部の弥栄町、中部の日吉町、亀岡市で、京の名産「千枚漬け」の原料として生産されている。
 
京都におけるせり栽培の歴史は古く、承和5年(838)の「続日本後記」にすでにせりが栽培されていたことが記されている。栽培は、2月中旬〜3月中旬に前年から栽培しているせりを引き抜いて苗床に植え、9月〜10月に掘り上げてあぜなどに積んでこも等をかぶせて発根苗を得、これを整地した水田に散布し、10月下旬〜翌春4月上旬に収穫する。現在は、南区や宇治市で栽培されている。浸し物や和え物、すき焼、かす汁などに用いられる。
   
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